ESSAY

老人養護施設 — フィールドノート

現場では英語の専門用語が飛び交います。あえてそのまま書いているので、このわかりづらさを、異国で働く難しさとして体感してもらえたら嬉しいです。また、登場する部屋番号はすべて架空のものです。最後に用語解説をつけています。

I. 採用まで

「介護士としてのあなたの強みはなんですか。」

オーストラリアで仕事を探すとき、最も有効な手段はソーシャルネットワークだ。求人サイトSEEKやIndeedを通じてレジュメを送っても、返信はまず期待できない。直接手渡しに行けば可能性は上がるが、それでも面接まで繋がることは少ない。採用担当者への直接アクセスを持つ知人からの紹介があれば、面接までの経路は一気に短くなる。インフォーマルなネットワークが、フォーマルな採用プロセスを迂回する。

「私の強みは、異文化への強い関心と、理解しようとする姿勢です。文化によって生活のあり方は大きく異なります。入居者を均質な集合としてではなく、それぞれの生活史を持つ個人として理解し、その人のあり方に沿ったケアを提供するように心がけています。」

準備していた通りの回答だった。面接が苦手だ。正確には、評価される状況が苦手だ。普段なら問題なく答えられる質問でも、一対一で評価される立場に置かれると、途端に頭が空白になる。同じシチュエーションを繰り返し経験することで、少しづつ緊張はほぐれる。面接でうと、IELTSのSpeakingも一度目は6.0だったが、一ヶ月後に再受験したら7.5まで上がった。現実世界で初対面の人と狭い個室で評価されながら会話することはない。英語力よりも身体が状況に慣れたことが点数が伸びた理由だと思う。私にとって、これが3度目の介護面接だったため緊張はほとんどなった。

すぐに採用が決まったが、その後の方がむしろ大変だった。必要書類のアップロード:介護資格の証明、パスポート、ビザ、無犯罪証明書、オンライン健康診断、リファレンス、Police Check、Right to Work Check、NDIS Workers Screening Check。全書類の確認まで約1ヶ月。ケアの現場に入る前に、制度的な審査がいくつもある。

II. モーニングシフト — ワークルーティン

「14号室とBさんをシャワーして、そのあと23号室でダブルを手伝って。」

名前と部屋番号が入り混じるベテランスタッフの指示をメモし、手袋をはめる。

施設は四つのセクションに分かれ、三交代制で運営されている。モーニング、アフタヌーン、ナイト。出勤して担当セクションを確認したスタッフたちが一喜一憂するのを横目に、私は自分の担当セクションに向かう。新人にとってはどこも等しく大変なので、どこのセクションになったとしても、そこまで感情は動かない。

ナイトスタッフからハンドオーバーを受け、14号室へ。

「おはようございます、Kです。今日このセクションを担当します。シャワーの時間ですが、ご機嫌いかがですか。」

挨拶は単なる礼儀ではなく、その後のケアの質を左右する関係構築の最初のステップだ。同じセクションに繰り返し入ることで、入居者ごとの身体的リズムや、ケアへの反応パターンが蓄積されていく。これはマニュアルには書いていない実践知の領域なので、普段入らないセクションに入る時はいつも緊張する。

モーニングシフトではシングルアシストの入居者を主に担当する。シャワールームへ誘導し、トイレに座ってもらう間にベッドメイク。着替え、パッド、石鹸、タオルの準備。男性入居者には髭剃りも。シャワー介助の後、脱いだ衣類と使用済みパッドをそれぞれのスキップへ。朝食のためにダイニングまで同行。これが一連の流れ。まだ慣れないので、自分も一緒にずぶ濡れになる。

Bさんからは、「昨日浴びたから今日はいい」とあっさり断られた。ケアの拒否は珍しくない。パーソンセンタードケアの原則に従い、入居者の意思決定は尊重される。認知症のある人には声かけによる誘導を試みるが、それでも拒否が続く場合はスタッフを交代するか、RNに報告してリフューズドケアとして記録する。この記録は、臨床的判断の痕跡であると同時に、施設の法的責任の文書化でもあるので欠かさない

23号室ではダブルアシスト。ホイストとスリングを用いてベッドからシャワーチェアへの移乗を補助し、シャワー介助の後、車椅子へ移してダイニングへ。重度の介護が必要な身体は、複数のスタッフと機器によって動かされる。

8時、朝食の準備で一度中断。部屋食の入居者への配膳、フィードアシストが必要な人への食事介助。その後、シャワーに戻る。順次休憩を挟みながら、昼食まで同じサイクルを繰り返す。タオルの補充、ランドリーの返却、スキップの処理、ベル対応、バオルチャートの記入。15時前、全室のセンサーとベッドの高さを確認し、アフタヌーンスタッフにハンドオーバーして終了。時計を見る暇もない。

III. アフタヌーンシフト — ビヘイビア

「ヘイルッッ!!ヘイルッッ!!」

31号室の入居者が、施設中に響く大声で叫んでいる。

アフタヌーンシフトにシャワーはない。だがスタッフ数も減るため、総労働量はモーニングと変わらない。ハンドオーバーで引き継がれる情報は短く、具体的だ。「42号室は昨日フォールしているから注意。58号室はフードアンドフルイドの記録。67号室はスリープチャート。」個人の身体状態が、用語に変換されて引き継がれる。

アフタヌーンではダブルアシストの入居者を主に担当する。ホイストでの移乗、パッドの交換、夜の着替え。反復するケア行為の中で、各入居者の身体と行動のパターンが少しずつ見えてくる。

31号室の入居者は認知症があり、英語を話さないらしい。「ヘイルッッ!!」という叫び声の意味は不明だ。パッド交換のために体位を変えようとすると、殴りかかってくる。実際に殴られ、蹴られ、噛まれたスタッフもいる。それでも、排泄で汚れたパッドとベッドシートをそのままにしておくことはできない。タイミングを計りながら、繰り返し交換を試みる。

52号室の入居者は、夕食のこだわりを持っている。まず熱々のスープと赤ワイン。飲み終わる頃合いを見て、温めたメインと二杯目のワイン。言葉遣いは荒く、部屋は散らかっている。スタッフから避けられがちだが、ゆっくり話してみると穏やかに応じてくれる。ケアの関係性は、スタッフ側の態度によって大きく変わる。

45号室の入居者は、ベッドの端から端へ頻繁に移動する。センサーが反応するたびに確認に向かう。30分おきのトイレ介助の要求。暴力的になることもあるが、対応するスタッフによって反応が変化する。身体的ケアは、物理的な処置以上に、社会的な相互行為の場だ。

シフトはビヘイビアの記録とナイトスタッフへのハンドオーバーで終わる。

IV. ナイトシフト — 待つこと

「車をどこに停めたかわからなくなってしまって、家に帰りたいんだ。」

11号室の入居者が、深夜3時、私に繰り返す。

ナイトシフトは22時から翌朝7時まで。各セクション一人配置。全室を回り、パッドを補充しながら、全員が安全な体勢で眠っているかを確認する。この作業音で何人かが目を覚ます。他にやりようがあるのではと思いながら、毎晩同じ手順を繰り返す。

深夜の認知症セクションは、日によって様子が全く違う。一人が起きると連鎖する。廊下を歩き回り、他の部屋へ入り込み、次々と入居者を起こして回る。最善は早期発見と誘導だが、一人だとなかなか対応しきれない。

そういう時は、ラウンジに一緒に座り、話を聞く。

彼らと対話するとき、私はいつもベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出す。認知症の彼らが見ている世界は、私には理解できない。言語として成立しない音の連鎖は、英語が母語でない私の耳には、英語としてすら聞き取れない。パソコンの文字化けを聞いているような感覚だ。

それでも、彼らが何かを待っていることだけはわかる。

家族かもしれない。家に帰れる日かもしれない。だけど、その日はなかなか来ない。

私にできることは『ゴドーを待ちながら』で、ゴドーを待つ二人のそばに現れる少年のように、「ゴドーさん、明日来るって言ってたよ」と、希望を一日先延ばしにすることだけだ。

NOTES — 用語解説

EMPLOYMENT — 採用・就職
ソーシャルネットワーク
Social Network

人と人とのつながりのネットワーク。オーストラリアでは、仕事探しにおいてフォーマルな求人サイトよりも、このインフォーマルなネットワークが機能することが多い。

求人サイト
SEEK / Indeed

オーストラリア最大の求人サイトはSEEK。レジュメを送っても返信が来ないことがほとんど。

インフォーマル
Informal

公式ではない、非制度的なやりとりのこと。フォーマルな採用プロセスを迂回するルートとして機能することが多い。

IELTS
International English Language Testing System

英語能力を測る国際試験。大学院進学には7.0以上が必要だった。Speaking試験は面接官と一対一の個室形式で行われる。

必要書類
Required Documents

採用後に提出が必要な書類一覧:介護資格の証明 / 無犯罪証明書 / オンライン健康診断 / リファレンス(前職の推薦者情報)/ Police Check / Right to Work Check(就労資格確認)/ NDIS Workers Screening Check(障害者支援に関わる審査)。全て揃えて確認が取れるまで約1ヶ月かかった。

CARE PRACTICE — ケアの実践
ハンドオーバー
Handover

シフト交代時に行う引き継ぎ。前のシフトのスタッフから、各入居者の状態や注意事項を口頭で伝達する。

シングル / ダブルアシスト
Single / Double Assist

ケアに必要なスタッフの人数。シングルは1人で対応可能、ダブルは2人必要な入居者を指す。

ホイストとスリング
Hoist & Sling

ホイストは電動の移乗リフト。スリングは入居者の身体を支える布製の器具。ベッドから車椅子への移乗などに使用する。

シャワーチェア
Shower Chair

シャワー介助の際に使用する防水仕様の椅子。自立してシャワーを浴びることが難しい入居者が座って使う。

パッド
Continence Pad

失禁用パッド。介護現場では消耗品として大量に使用される。交換は一連のケアの中で最も基本的な業務のひとつ。

スキップ
Skip / Laundry Bin

使用済みの衣類やリネンを入れる大型の布製容器。各部屋で使用済みのパッドや衣類を入れ、後でランドリーへ。

フィードアシスト
Feed Assist

食事介助のこと。自力で食事を摂ることが難しい入居者に対して、スタッフが食事を介助する。

RN
Registered Nurse — 登録看護師

日本でいう正看護師に相当する資格。施設内での医療的判断や記録の責任を持つ。

リフューズドケア
Refused Care

入居者がケアを拒否した際の記録。拒否そのものはパーソンセンタードケアの観点から尊重されるが、記録として残す必要がある。

パーソンセンタードケア
Person-Centred Care

入居者一人ひとりの意思・価値観・生活史を中心に置くケアの哲学。画一的なケアではなく、その人らしさを尊重する。

DOCUMENTATION — 記録・管理
バオルチャート
Bowel Chart

排便の記録表。頻度、状態などを記録し、健康状態の管理に使う。

フードアンドフルイド
Food & Fluid Chart

食事と水分摂取量の記録。栄養状態や脱水リスクのモニタリングに使用する。

スリープチャート
Sleep Chart

睡眠状態の記録。夜勤スタッフが各入居者の睡眠の質や覚醒回数を記録する。

センサー
Bed Sensor

ベッドに設置する離床センサー。入居者がベッドから起き上がると警報が鳴り、スタッフに知らせる転倒防止のための機器。

ビヘイビア
Behaviour / BPSD

認知症に伴う行動・心理症状のこと。暴言、暴力、徘徊、叫び声など。記録し、対応策をチームで共有する。

フォール
Fall — 転倒

転倒事故のこと。施設内では最も重要なインシデントのひとつ。発生後は記録と報告が義務付けられ、再発防止策が検討される。

CONCEPTS — 概念・思想
現象学
Phenomenology

意識や経験の構造を記述しようとする哲学的方法。ここでは、日常的なケア行為の反復の中に潜む意味を記述する姿勢として使っている。

実践知
Tacit Knowledge / Practical Wisdom

マニュアルや言語化された知識では伝えられない、経験を通じて身体に蓄積される知識。各入居者のリズムや癖を掴むこともその一つ。

生活史
Life History

その人がどのように生きてきたか、という個人の歴史。パーソンセンタードケアでは、生活史を理解することがケアの出発点になる。

社会的な相互行為
Social Interaction

人と人との間で交わされるやりとりの総体。ケアは身体的処置であると同時に、常にこの相互行為の場でもある。

ゴドーを待ちながら
Waiting for Godot — Samuel Beckett, 1952

アイルランドの作家サミュエル・ベケットによる不条理劇。決して来ないゴドーを待ち続ける二人の男を描く。劇中に登場する少年が「ゴドーは明日来る」と告げ続ける場面から、希望の先延ばしという構造を借りている。深夜の認知症ケアの中で、繰り返しこの戯曲を思い出す。

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