
Tweed Heads にある小さな先住民の資料館に行ってきた。Minjungbal Cultural Centre and Museum。入場料10ドル。学生は無料らしい。
Museumと呼ぶには小さく、展示物は多くないが、この多くない展示物を残すことに大きな意味がある。ボードウォークを歩いてBora Ring(儀式に使われた円形の聖地)にも行けて、マングローブを抜けて戻って来れる。1時間もあれば十分みて回れる。
I. 展示が終わる場所
展示の説明は主にこの地域に暮らしていた先住民(Bundjalung Nation)の人々のこと。生活や、Dreaming(ドリーミング)の世界観。Bora Ringでの成人の儀式。狩猟と漁の知識について。そして、入植者とのファーストコンタクト。そこで展示が終わり、植民地化以降の話はほとんどない。
II. 展示されていないものを見る
資料館を訪れるとき、私はそこに何が展示されているかはもちろん、それが誰の視点から展示されているか。そして、展示されていないものは何か、を意識してみるようにしている。そういう風に展示を見るようになったのは、長崎の原爆資料館を訪れたときの違和感がきっかけだ。
原爆資料館に入るとまず11時2分で止まったままの時計が目に入る。長崎の原爆資料館は、1945年8月9日11時2分から始まる。そこから原爆によってどれだけの被害があったのかが解説されるが、なぜ原爆が落とされたのか、なぜ長崎だったのか、その文脈は不可視化されている。原爆投下より前の出来事については、つまり日本の加害性については、何の説明もなく、ただ長崎に原爆が落とされる。そして後に、展示されている被害者数の統計に含まれない被害者もいることも知った。
ケニアでも似たようなことがあった。とあるコミュニティの伝統的な生活が展示されているというカルチャーセンターに連れて行ってもらった時のことだ。やけに立派な看板の立っている大きな建物の中には、確かに当時使われていた火おこしや狩猟採集の道具が数点展示されていた。しかし、それは埃をかぶっていて、展示というよりもただ保管されている倉庫のようだった。(もう一つある、と連れて行ってもらったカルチャーセンターには看板と壁しかなかった。)上から目線の「少数コミュニティ支援」という謳い文句で作られた箱に、彼らの現実は展示されていない。
話が逸れた。
Minjungbal Museumでも同じようなことが言える。展示されていないもの。入植者とのファーストコンタクト以降に起こった凄惨な出来事。そもそも、なぜMuseumを作って彼らの文化が残されなければならないのか、という問いに、展示は答えていない。展示できない理由には、いろんな事情が重なっているんだろう。オーストラリアでは、少しでもAboriginal and Torres Strait Islanderに関する記事や映像、画像には、トラウマの記憶を引き起こす可能性があるという注意書きが必ず記される。
III. ファーストコンタクトの後に起きたこと
展示が終わった時点から先に、何があったのか。
まず人口の話をしなければならない。
ヨーロッパ人が入植した1788年時点で、50万から100万人ほどのアボリジニがオーストラリアに生活していた。それが1920年には約7万人にまで減少している。90%以上の減少。最大の要因は天然痘や梅毒、インフルエンザなど、入植者が持ち込んだ伝染病とされているが、それだけではない。
植民地化以降、虐殺、毒殺、強制移住など、様々な手段で先住民の人口は激減した。
白豪主義(White Australia Policy)のもと、白人中心の国家を建設するために、移民を制限し、アボリジニを弾圧し続けた。20世紀前半には、アボリジニは「死に行く民族」として公式に分類されるようになる。絶滅させる、ではなく、絶滅する、という語り口で。その後、方針が変わる。死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会へ同化させる方針が強化された。
Blackbirding。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、太平洋諸島やアボリジニの人々を騙したり拉致したりして、サトウキビ農園の労働力として連行した慣行。Tweed周辺はサトウキビ産業が盛んだった地域だ。
Queensland Native Mounted Police。アボリジニのトルーパーと白人の将校で構成された部隊が、60年近くにわたって「分散(dispersal)」という名のもとにアボリジニのコミュニティを虐殺した。トルーパーたちは意図的に自分の部族とは異なる地域から集められた。自分の部族の敵対部族に対してなら動くインセンティブがあった。支配者が被支配者を使って被支配者を殺させる構造は、どこにでもある。もちろん、日本にも。
Stolen Generation。1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子どもや混血児を親元から引き離し、白人家庭や施設で育てるという政策が行われた。建前上は「進んだ文化の元で育てる」とされていたが、実際の目的はアボリジニの文化を絶やし、その存在自体を消滅させることだった。1920年から1930年の間だけで、10万人の子どもが親元から引き離されたとされる。多くが送り込まれたのは強制収容所や孤児院だった。1997年、オーストラリア人権委員会はこれをジェノサイドと認定した。
アボリジニの市民権がようやく認められたのは、1967年のことだ。2008年、ケビン・ラッド首相が議会で公式に謝罪した。「Sorry」という言葉を3度使って。ただし補償金の支払いには応じない方針を明らかにした。
そして、これは過去の話ではない。
2024年時点で、アボリジニおよびトレス海峡諸島民は全人口の約3.8%に過ぎないが、全受刑者の36%を占めている。非先住民と比べて、成人男性で約12倍、成人女性で約20倍以上の割合で収監されている。先住民の平均寿命は非先住民より男性で8.8年、女性で8.1年短い。自殺率は10万人あたり30.8人。先住民の子どもが里親や施設に預けられる割合は、非先住民の約12倍だ。
IV. 誰のための記憶か
これだけの出来事があったのに、展示が「入植者とのファーストコンタクトで終わる」のは、なぜか。
一つには、傷が深すぎるから。植民地化以降の歴史を展示することは、まだ癒えていない傷を公衆の前に晒すことでもある。コミュニティの団結のために、内部の複雑さを外に向けて語らないという選択もある。
でも同時に、記憶は常に、誰かによって、何かのために、選ばれる。
ポスト植民地主義の視点から言えば、「被害者としてのアボリジニ」という物語を固定することで、見えなくなるものもある。同じ「アボリジニ」の中でも部族間の対立があり、進んで入植者に協力した部族もいた。先住民警察として同胞を殺したトルーパーたちもいる。さらに、「アボリジニの権利」として語られる中に埋もれる、アボリジニの女性やマイノリティの声。誰がアボリジニかを定義する権力の問題もある。
Minjungbal Museumの展示が英語で書かれ、観光客向けに設計されているとき、何かが翻訳の過程で失われているかもしれない。そもそもアボリジニは文字を持たない。誰の歴史か、誰の言葉か。それ自体が問いであり続ける。
2020年、オーストラリア政府と先住民ピーク団体はClosing the Gapという協定に署名した。2031年までに先住民の拘禁率を30%削減することを目標の一つとした。しかし2024年の報告書は、目標が達成軌道にないことを認めている。数字は改善するどころか、悪化し続けている。記憶を正しく継承することと、現在進行形の構造的暴力に向き合うことは、切り離せない。
V. 茂みの気配
帰り道、ボードウォークを歩いていたとき、茂みからカサカサッと音がした。蛇かもしれないと少し身構えた。でも姿は見えない。
そのとき、ふと思ったのは、不可視のものを、不可視のままで尊重することはできないか、ということ。生き物の姿は見えない。でも気配には気づける。そしてその存在を、踏み荒らさずにいることはできる。
しかし、蛇の気配を感じて「尊重する」と言うとき、私は何をしようとしているのか。その気配を自分の言語で処理して、自分の倫理の物語に回収しているのではないか。
今の私にできるのは、気配に気づいて立ち止まること。その先は、私が語る話ではない。
ただ、立ち止まることと、社会として「保護する責任がある」ことは、別の話として同時に成立する。オーストラリアの、そして世界の文脈では、気配に気づいて立ち止まるだけでは足りないくらいに、踏み荒らされてきた歴史がある。個人の姿勢(尊重)と社会的責任(保護・賠償)は、どちらかを選ぶ話ではなく、両方を同時に問われている。
この場所が今も残っていること、ここを管理しているのがアボリジニのコミュニティ自身であること。小さくて寂れた資料館だったけれど、それでもここが残されなければならない意味を考え続けなければならない。ソーシャルワーカーとして将来彼らと深く関わっていくなら、不可視化されている文脈に注意深く耳を傾けなければならない。展示されていないものを考えさせてくれる場所が必要なのだ。
私たちは、目に見えるものだけを信じてしまう。上に書いた歴史やデータも、資料として残っているものだ。「被害者」のラベルを貼られていっしょくたにされた人たち、一人一人に日々の生活があった。誰にも気づかれず、公的に記録されず、息を引き取った人たちは、いなかったことにされる。今でも先住民の子どもたちが里親に預けられる割合は、非先住民の12倍。Stolen Generationは1969年に「終わった」はずだが、家族から切り離されるという構造は形を変えて続いている。収監率は下がるどころか上昇し続け、2024年に過去最高を記録した。
拘置施設での死亡も増えている。2024〜2025年の12ヶ月間で、拘置中に亡くなった先住民は33人。全拘置死亡者の約30%を占め、記録が始まって以来最高の割合だった。
これらはすべて、Minjungbal Museumの展示が終わった場所から、線でつながっている。植民地化は過去のことではない。Stolen Generationのトラウマは世代を越えて受け継がれ、貧困と住宅不安と精神的健康の問題として今も人々の生活に刻まれている。
オーストラリアで生活し、介護の現場で働き、ソーシャルワークを学んでいると、この問題は教科書の中の話ではなくなる。
自分に何ができるかは、まだわからない。
でも、知ってしまった以上、「沈黙」は加担だと思う。
せめて、知ってしまったという責任は果たしていきたい。
Tweed HeadsからByron Bay、クイーンズランド南部にかけての地域の先住民の総称。20以上の部族グループからなり、数千年にわたってこの土地に暮らしてきた。
Tweed Heads周辺のBundjalung Nationの特定のグループ名。Tweed HeadsにあるMinjungbal Aboriginal Cultural Centreの名前にもなっている。
成人式など重要な儀式のために使われた円形の聖地。地面を掘り起こして作られた土塁の輪で、芝生の盛り上がりとして現在も各地に残っている。立ち入りに制限がある場所もある。
アボリジニの世界観・宗教観の根幹。土地は精霊的な存在によって創られたという信仰であり、過去・現在・未来が同時に存在する時間の概念でもある。「夢」という訳語は本来の意味を捉えきれないとして、原語のまま使われることが多い。
白人中心の国家建設を目的に、有色人種の移民を制限し、アボリジニを弾圧し続けたオーストラリアの政策の総称。1901年の連邦成立と同時に制度化され、1970年代に段階的に廃止された。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、太平洋諸島やアボリジニの人々を騙したり拉致したりして農園労働力として連行した慣行。Tweed周辺はサトウキビ産業が盛んで、多くの労働者がこの形で連れてこられた。
アボリジニのトルーパーと白人将校で構成された植民地警察部隊。「分散(dispersal)」という名のもとに推定2万4千人以上のアボリジニを虐殺したとされる。その存在は長らく公式の歴史から消されてきた。
アボリジニの子どもたちを家族から強制的に引き離し、白人家庭や施設で育てた政策。1997年にジェノサイドと認定された。2008年、ラッド首相が国会で公式に謝罪。その影響は世代間トラウマとして現在も続いている。
Queensland Native Mounted Policeが行った虐殺作戦に使われた公式用語。「分散させる」という言葉の裏に、集落の破壊と住民の殺害が隠されていた。暴力を中立的な行政用語で覆い隠す、言語による暴力の典型例として、現在の歴史研究では批判的に参照される。
植民地化、強制移住、家族の分離などの歴史的暴力が、世代を超えて心理的・社会的影響を与え続けること。現在のアボリジニの拘禁率や健康格差、家族機能の脆弱性を理解する上で欠かせない概念。
2020年にオーストラリア連邦政府と先住民ピーク団体が署名した協定。先住民と非先住民の格差是正を目的とした19の目標を定めているが、2024年の報告書では多くの目標が達成軌道にないことが確認された。
特定の個人や集団に対して、社会制度・経済構造・歴史的経緯によって組み込まれた不平等や害。直接的な暴力と異なり、加害者が見えにくい。Johan Galtungが1969年に提唱した概念で、アボリジニの過剰拘禁、健康格差、子どもの家族分離はその現れとして捉えられる。
植民地支配の歴史とその現在への影響を批判的に分析する学問的・思想的立場。Edward Saidの『オリエンタリズム』(1978年)を起点の一つとする。誰が歴史を語り、誰の声が不可視化されているかを問う。
ヨーロッパ人入植者とアボリジニの最初の接触。1770年、James Cookがオーストラリア東海岸を航行したことを指すことが多い。この「接触」以降、疫病・暴力・土地収奪により、アボリジニの人口は90%以上減少したとされる。